日本音楽学会過去の全国大会第49回(1998)>研究発表D要旨


日本音楽学会第49回大会

研究発表D要旨


D-1 園田みどり
16世紀イタリア多声世俗音楽における作曲家の歌詞に入手経路
-ヴェルトの18曲にマドリガーレを中心に-

 ジャケス・デ・ヴェルト(1535-1596)の多声世俗音楽作品は、全230曲が現存している(連作マドリガーレは各連を1つとはせず、全体で1と数える)。本発表では、そのうちの18曲のマドリガーレについて、その歌詞の入手経路を考察する。

 一般に、当時の作曲家の歌詞の入手経路には、(1) 市販の印刷詩集を参照、(2) 詩人、あるいは詩人と作曲家を仲介する人物から手書きのまま入手、(3) 他の作曲家の楽譜から転用、以上3つの可能性がある(Bianconi:1986)。今回の研究対象である18曲は、その歌詞が印刷詩集に先立ってヴェルトの楽譜上に印刷されている点で残る212曲とは異なる。つまり、歌詞の入手経路から言えば(1)ではあり得ず、(2)もしくは(3)ということになる。ただし、18曲中`に可能性があるのは、ヴェルトより前にすでに他の作曲家による楽譜が出版されていた3曲に留まる。この3曲については、先行する他の作曲家の楽譜とヴェルトの楽譜とを、歌詞と音楽の両面から厳密に比較する。

 これら18曲の歌詞は計8人の作家によるもので、T.タッソやG.B.グアリーニなど、ヴェルトの行動範囲内で創作活動を行っていた文人が主であるが、フェデリゴ・アジナーリのように、今まで音楽史上でまったく注目されてこなかった者も含まれ、ヴェルトの伝記再考にとっては有益な情報となろう。また、18曲の歌詞をのちに詩集で出版された決定稿と比較すると、語順や単語の選択の上で違いが見られる場合がある。ヴェルトが推敲の不十分な詩を入手して作曲したことを窺わせるが、詩人あるいは作曲家が、通常の抒情詩と「もっぱら作曲に適した詩(poesia per musica)」とを区別して創作したためかもしれないので、これら異稿の質も検討する。

 なお、今回の研究にとって不可欠であった歌詞データベース「レピム REPIM」(1977年よりボローニャ大学で作成中)、および昨年12月に出版されたG.B.グアリーニのカタログ(Chater, Vassalli-Pompilio)の特長についても、発表の中で併せ報告したい。 



D-2 中巻寛子
17世紀イタリアにおけるカストラート台頭の音楽的要因
−−その歌唱表現力と発声−−


 本論の目的は、17世紀前半のイタリアにおいて、カストラート歌手たちの台頭を促した音楽的な要因の一つが、同時期に発展した独唱曲の演奏者としての、彼らの豊かな歌唱表現力に対する評価の高さであったことを指摘し、さらには、その表現力の一翼を担っていた、彼らの胸声主体の発声法を紹介することにある。

 従来、西欧におけるカストラート歌手出現の理由は、教会聖歌隊のソプラノ歌手としての彼らに対する需要にあったと説明されるのが常であった。しかし、その後の彼らの活動は、もっぱら、18世紀のオペラにおけるスター歌手としてのそれが中心として語られ、17世紀中のカストラートたちの活動について語られることはほとんど無かった。そのことが、世俗歌手としての彼らの台頭をも促した、彼らの歌唱表現力という要因を見落とすことにつながっていたと考えられる。

 1640年に書かれたPietro della Valle (1586-1652) の論考においては、カストラートと他の男性ソプラノとを比較した際に、カストラートが優位に立つ理由として、ボーイ・ソプラノよりはそのソプラノの声が長く保たれることに加えて、彼らよりもカストラートたちが年齢において長じていることによって、曲の持つ情緒を深く理解し、それぞれのセンスと独自の判断で高度な技巧を駆使して、表情豊かな演奏ができたことを挙げている。さらに、ファルセット歌手に対しては、声の自然さにおいて優位に立っていたことを述べている。このカストラートたちの自然な声は、ファルセット歌手たちの頭声発声に対して、彼らが胸声主体の発声をしていたことによって得られていたのである。本発表中では、自身がカストラートであった Pier Francesco Tosi (1654-1732) の教則本に記された発声に関する記述を中心に、録音資料を交えながら、これについて説明する。



D-3 近藤秀樹
『月の光』のイロニー 
――ジャンケレヴィッチのフォーレ論とイロニー論


 哲学者であり音楽学者でもあったヴラディミール・ジャンケレヴィッチ(1903−1985)は、『フォーレと表現しえぬもの』(1938/1974)のなかで、歌曲『月の
光』について興味深い考察を行っている。ヴェルレーヌの詩による歌曲『月の光』(1887)は、ガブリエル・フォーレ(1845−1924)の歌曲のなかで最も成功したもののひとつとされるが、この歌曲のうちに、ジャンケレヴィッチは或る種のイロニー的な表現を見て取る。否、事態はもう少し複雑である。というのも、そもそもヴェルレーヌの詩自体にイロニー的な要素が含まれており、それが音楽によってさらにイロニー化されるのだから。

 これはいかにもジャンケレヴィッチらしい議論といえよう。なぜなら、哲学者ジャンケレヴィッチは『イロニーの精神』(1936/1972)の著者でもあるからだ。同書の精彩に富む分析は、イロニーの背後に心理の微妙な襞をさぐりあてているが、興味深いことに、そこにもフォーレの『月の光』についての記述がさりげなく織り込まれている。『月の光』は、ジャンケレヴィッチのフォーレ論とイロニー論とをつなぐ「接点」なのである。

 そこで今回の発表では、歌曲『月の光』を通路として『フォーレと表現しえぬもの』と『イロニーの精神』との間を行き来しつつ、イロニーと音楽とをめぐる諸問題に光をあててみたい。音楽におけるイロニー的な表現は、どのようにして可能になるのか。イロニー自体がイロニー化されたとき、それはイロニーであることができるのか。また、こうした手の込んだ操作の背後には、どのような心理の襞が隠されているのか。否、そもそもイロニーとは何なのか――。問いは様々な方向へと連なってゆくが、ここではひとまずジャンケレヴィッチの記述の解釈を考察の枠組とし、「反転」「交錯配語」「イロニーとユーモアの相互浸透」などを手がかりに、『月の光』のイロニーについて論じてみたい。


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