日本音楽学会過去の全国大会第49回(1998)>シンポジウム2要旨


日本音楽学会第49回大会

シンポジウム2要旨


シンポジウム 2 

音楽学からみたポピュラー音楽

パネリスト:

井上貴子
大角欣矢
久万田晋
増田聡

司会:村田公一



村田公一
音楽学からみたポピュラー音楽


 ポピュラー音楽を対象とする音楽学の研究は、一歩踏み出す時期に来たと考えます。

 一つは日本で実用化された技術をベースに、90年代に入り市場を広げた。またこの裏には、こうした技術に適合した音楽が、大量に供給された、ということもあげられます。

 所でこの方向は、高度成長が止まった石油ショックを一つの画期として生まれ、その後、様々な技術面の突破があって、達成されました。オーディオ技術の展開は、多様な再生装置からカラオケ、映像との融合、それらのデジタル化と展開しました。こ
れらはそれ以前の外発的な展開とは、基盤を異にしていると考えられます。

 同時に、音楽もハードを利用するソフトの持続的な発展として、様々な試みが行われました。保管が必要なのは、上で述べた技術が近代化の過程で、欧米よりもたらされ、第二次世界大戦後は合衆国、ないし英語圏からの刺激を受けて生まれてきた、という点です。

 しかしポピュラー音楽は日本国内で、国内市場を拡大する方向で発展してきました。日本語のポップ音楽は売れ筋商品となり、一つのピークを超えました。この方向は、ゲームやアニメも含めて、国外に輸出され、一定の市場を獲得しつつあります。来世紀にはDVDも立ち上がり、現在の状況の延長上に当面進んでいくと予想されます。

 こうした機器とそのソフトがもたらす娯楽は、音の面では、ポピュラー音楽が担保しています。映像はいろいろで ありましょうが、音響ないし音楽は一括してポピュラー音楽の類といって間違いではないでしょう。

 ポピュラー音楽は、研究の必要性がこういう所から生じてくると考えますと、どうでしょう。研究者は正に研究対象にどっぷりつかって、距離を取れない状況です。音楽学が研究対象としてのポピュラー音楽に容易に接近できないのは、この点です。

 最初から距離のない対象を研究する、となりますと、どういうネックが考えられるか。音楽の周囲に広がる空間、時間は必ずしも音楽とは関係ないものの、大なり小なり影響を与えて、存在しています。つまりポピュラー音楽は、音楽外の様々な存在を整理しないと、音楽にたどり着けないと考えていいでしょう。そして音楽にたどり着けば、そこからは音楽学の出番となりましょう。

 音楽にたどり着けそうな方向に目的地を設定して、音楽外の広野に歩みを進める事は、学際的な接近であると同時に、音楽学の仕事そのものでもあります。

 貨幣経済の進展は、一方で消費社会、もう一方で大衆社会を生み出しました。その大衆化傾向は、日本では高等教育の大衆化をも生み出しました。

 音楽学がポピュラー音楽を研究するというのは、大衆の一員である研究者が、そこに棲む社会の音楽を通じて、自らの有り様の一面を認識する、ということでありましょう。日本音楽学会の現在的課題ということにならないでしょうか。


井上貴子
X JAPANをめぐって
    -YOSHIKIをとりまく「ディープ」なファンの方法と目的-

 X JAPANは、現在日本のポピュラー音楽の中で「ヴィジュアル系」と呼ばれるロック・バンドのブームが起こるきっかけとなったバンドである。X JAPANのリーダーでドラムズとピアノを担当するYOSHIKIは、X JAPANの曲の8割がたを作っているばかりでなく、プロデュースからプロモーションに至るまでほぼ一人で指揮しているという点でも、通常のポピュラー音楽の制作とは一線を画している。このことが、YOSHIKIのカリスマ性をより一層高めると同時に、ファンを無意識のうちにより分けてもいる。即ち、ライヴやCD、カラオケ、グッズ、コスプレといったどの「ヴィジュアル系」バンドにも共通するファン層とは別に、YOSHIKIのことをもっと深く知りたいと考える「ディープ」なファン層が存在するのである。YOSHIKIの私生活に関する情報は極めて少ない。このことは、ファンをYOSHIKIの音楽、CD、ライヴ、TV等あらゆるメディアを通じて受け取られる音楽のすべて―の分析へと駆り立てている。こうしたファンには、楽譜が読めるあるいは楽器が弾ける人が多く含まれ、実際に演奏を志す者もいる。それができないファンも、単に詳細な情報収集ばかりではなく、ヴィジュアルや詩の内容、哲学的背景等様々な角度から分析し、互いに意見を交換しつつ全体像をねりあげていく。こうした作業は、音楽こそがYOSHIKIを最もよく表すものであるという信念に基づいている。特に、YOSHIKIは、ハード・ロック/へヴィ・メタルの他に、クラシックの影響を強く受けており、フル・スコアを書いてバンドのメンバーに渡すことで知られている。ファンは、スコアが音になる段階、つまりスタジオの中を覗くことはできないし、実筆スコアをみることはできない。その代わり、CDが発売されるとまもなく発売になるバンドスコア(プロが聴音して作る)を、例え楽譜がよく読めなくても購入する。このような一連の行動によって、カリスマYOSHIKIはより身近な存在として、個々のファンの前に立ち現われてくるのである。

 こうした情報収集から分析に至るまでに用いられる方法は、YOSHIKI自身がクラシックの影響を受けていることもあって、音楽学のそれと似ているように思われる。しかし、「ディープ」なファンの目的は、あくまでYOSHIKIなのであって、音楽的構造を明らかにすることではない。即ち、「ディープ」なファンのコミュニティとは、YOSHIKIという同時代に生きる人間を通じて、自らを社会的文化的文脈の中に位置づける実験場であるともいえよう。その一過程で、音楽学の開発した分析の手法を利用しているのである。


大角欣矢
ポピュラー音楽研究における楽曲分析の可能性と意義
    -《木綿のハンカチーフ》を題材に-

  
 ポピュラー音楽研究において、楽曲の分析的研究は遅れている。その理由はまず方法論上のものである。ポピュラー音楽においては、記譜可能なパラメーターは二義的な重要性しかもたないとされる(楽譜に拠らない分析法は、なお試行の域を出ない)。また、譜面分析は、集中的聴取という西洋芸術音楽における理想的な聴取を前提としている、と言われる。しかし、散漫な聴取と「サウンド」指向はポピュラー音楽聴取の一局面に過ぎず、しかもそれ特有の聴取形態であるとも言えない。むしろ複製メディアの普及は、音楽の種類によらず「ディープ」な反復聴取を可能にした。その際、聴き手が個々の楽曲に魅了されるという現象は、季節や流行に応じて洋服を変えるような大衆行動や、自己アイデンティティの維持(更新)といった側面からだけでは十分に説明しきれない。この装置全体の中心に、アウラをもつミュージシャンの人格と分かち難く結びついた、旋律を始めとする楽曲の記譜可能な要素があることは否めない。そして音の塊や連なりを「意味のるものとして」聴くという聴き手の行為に楽曲がその存立を負っており、またその「意味」が個々の楽曲の個性的なあり方に関係している限り、譜面分析には依然として一定の有効性が認められよう。

 一方、上述の方法論的疑念はイデオロギー批判を含んでもいる。それはより皮相的には、西洋芸術音楽のヘゲモニーに対するものである。例えば、ポピュラー音楽における記譜可能な要素の多くは、西洋芸術音楽を通俗化したものに過ぎないから、もっと別な要素に注目すべきだという。だが、芸術音楽とポピュラー音楽という二分法の有効性自体が、今まさに問われている。むしろこの疑念の核心は、エクリチュールの支配としての西洋形而上学への異議申し立てにある。乱暴に言えば、西洋音楽ではギリシャ以来、「聞こえるもの」は常に仮象として、「聞こえない」本来の影と考えられてきた。音楽経験は空間的・構造的な視覚像に還元され、テオーリア(見ること)を至高視するこの機構の下で、身体的なものは抑圧される。だが、人間の現実認識がロゴスに媒介されると考える限り、音楽研究はこの歴史性の引き受けから始めるほかない。避けるべきなのは、書かれたものに関わる分析それ自体ではなく、そこにおける、現実の生から遊離した抽象化のプロセスを、真の理解と取り違えることである。むしろ分析は、楽曲と分析者双方の歴史的被規定性のせめぎ合いのただ中で理解を生起させる、それ自体歴史的なプロセスである。

 考えを深めるための材料として、楽譜上での分析が比較的有意であると思われる1970年代半ばの歌謡曲から、《木綿のハンカチーフ》(歌:太田裕美、作詞:松本隆、作曲:筒美京平、1975年)を取り上げ、具体的に論じる予定である。


久万田晋
沖縄ポップにおける民族性表現
    -音楽の内と外-


 本報告では、沖縄において民族性を主体的に表現するポピュラー音楽として1970年代以降登場した沖縄ポップを事例に、音楽学の枠内でどのように論じることが可能なのか(また不可能なのか)を考察する。

 これまで、民族(民俗)音楽学的な立場では、音楽活動を人々の無意識裡の文化的営為として扱う態度が優勢だった。ポピュラー音楽も、社会的、文化的な脈絡や価値観から、意識化されないレヴェルで深い影響を受けている。しかしその一方で、ポピュラー音楽が特定の集団の民族性表現を担うような場合、音楽家が置かれた政治・社会・文化的状況の中で、特定のイデオロギーや文化的正統性の主張など、意識的・意図的に採択された戦略的態度が全面に押し出されることもまた事実である。音楽学的にはそれらがどのように音楽テクスチュア内に反映あるいは浸透しているのかが問題となる。またそうした状況では、民族(民俗)音楽学的な認識も言説も、民族性表現の源泉としてしばしば引用・流用される。

 沖縄ポップも沖縄の民族性を主体的に表現する音楽たる以上、こうした音楽「外」的な戦略から自由ではありえない。その作品は、沖縄の社会文化の歴史性や世界構造に対峙し、意識的に構築された表現として立ち上がる。しかしその一方で、沖縄ポップは沖縄の伝統的音楽世界から、言説化されない、いわば音楽「内」的な領域をも強固に継承している。

 こうした中で、沖縄ポップとしての表現様式確立の過程では、音楽テクスチュア各局面の志向性は一様ではない。沖縄の民族性表現として、必ずしも明らかに「沖縄的」と見なされる要素が採択されるとは限らない。一見「沖縄」的な要素と「非沖縄」的な要素が混淆され、混沌とした様式をなすこともめずらしくない。また音楽「外」的な論理と音楽「内」的な論理が衝突し、せめぎ合う。沖縄ポップとは、そのような諸力の交錯する激しい場なのである。

 沖縄ポップという、民族性表現を求めて様々な力が渦巻く場に、我々はどのように「音楽学」的に迫りうるのか、考える端緒としてみたい。


増田聡
問題提起:クラブ・ミュージックと音楽学

 本報告では、現代的なポピュラー音楽実践の中から、クラブ・ミュージックと呼ばれる現代ダンス音楽を取り上げ、音楽学がその領域にアプローチする際に生じる諸問題について論じる。

 従来の音楽文化においては、演奏を記録しそれを再生産するテクノロジーとして捉えられているターンテーブル(アナログ・レコードをクラブにおいて再生するために用いられる、回転数が連続的に可変するレコード・プレーヤーを指す)を、新たな音楽を生産するための「楽器」として用いるクラブ・ミュージックにおいては、「演奏」「作品」「作者」といった音楽の基本概念が、従来の音楽学で用いられるそれとずれた形で現実の実践に対応することとなる。既成のレコード音源をサンプリングすることによって作られたクラブ・ミュージックは新たな音楽の「生産」なのか、それとも再生産にすぎないのか。DJが行うリミックスは「演奏」なのか「創作」なのか。複数の実践者の音楽的意味生産が折り重なって作り上げられる一枚のレコード音楽の「作者」とは誰か。ポピュラー音楽は西洋芸術音楽ほど音楽学の内部にあるわけでもなく、逆に非西洋の民族音楽ほどわれわれと隔絶しているわけでもない。ポピュラー音楽で用いられる音楽諸概念は西洋芸術音楽のそれから「流用appropriation」され、本来の文脈と異なった外延を伴うこととなる。それは誤った用法で用いられているかもしれないが、むしろ概念の意味が変容したとみるべきである。クラブ・ミュージックをとりまく言説は、西洋芸術音楽と同じ概念を用いつつ、音楽に対する異なった見方や捉え方を構成している。

 現代の日本の音楽学アカデミズムは、西洋近代の芸術音楽に対する一定かつ特定の知識や概念体系をその影響下にある者に対して要求する。例えばピアノが弾けず五線譜が読めない者、そしてそのような実践が背景にする音楽についての概念体系や常識を共有しない者に対して、日本ではほぼ音楽学者としての道は閉ざされる。無意識のうちに音楽学によって構築される新たなポピュラー音楽文化に対して、知らずして「エティック」な見方を押しつけてしまう可能性があるのではないか。


日本音楽学会過去の全国大会第49回(1998)>シンポジウム2要旨