東日本支部通信 第42号特別号(2016年度 第7号特別号)

2017.1. 10. 公開 2017.2.9. 傍聴記公開

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東日本支部 特別例会

日時:2017年1月21日(土)午後2時~4時半
場所:青山学院大学 青山キャンパス 11号館1134教室
司会:沼野雄司(桐朋学園大学)
内容:キャロル J. オジャ 氏講演会(ハーバード大学、ラドクリフ高等研究所)
   「レナード・バーンスタインの登場:第二次大戦中における、様々な境界線への抵抗と人種差別問題への挑戦」
通訳:大西義明


【講演要旨】

 このレクチャーは、20世紀においてもっとも有名で影響力を発揮した音楽家のひとりであるレナード・バーンスタインの最初期の活動を扱う。焦点があてられるのは1940年代と1950年代初頭、すなわち彼がまだニューヨーク・フィルの音楽監督に就任する以前における、指揮者としての、作曲家としての、そして人種差別に対する活動家としての経験である。ニューヨーク・フィルのアーカイブと米議会図書館内のバーンスタイン・コレクションにおける調査が本研究の基礎となった。具体的な事例としては、指揮者としてのサプライズ・デビュー(1943)、最初のバレエ「ファンシー・フリー」および最初のブロードウェイ・ミュージカル「オン・ザ・タウン」(共に1944)の破格の成功などが扱われることになろう。バーンスタインの生涯に渡る社会的正義へのコミットはこの時期、まさに彼が人種差別廃止の活動を始めた時期に根差している。彼はそのキャリアを通して、アフリカ系アメリカ人の起用を推し進め、クラシック音楽における構造的な差別を破壊するという責務を引き受けたのだった。
 全体として、このレクチャーは「長きにわたる」公民権運動とクラシック音楽演奏の交叉点を描き出そうとする研究プロジェクトの一部といえる。ジャズにおける人種差別問題はこれまでに論じられてきたけれども、クラシック音楽のビジネスにおける人種問題の歴史に焦点を当てた研究は、いまだきわめて少ないのである。


【傍聴記】(福中冬子) 
 ハーヴァード大学のキャロル・オジャ教授による本講演は、第二次大戦中〜戦後期におけるクラシック音楽領域における「政治的発言」を事例として、長きに亘る公民権運動とクラシック音楽界の交叉点を探る、ここ数年の自身の研究を紹介する内容だった。その中で中心に据えられたのが、未だ通称「ジム・クロウ法」がアメリカ合衆国南部で存在していた戦後期に、人種隔離政策へのひとつの抵抗として行われた(とオジャ教授が解釈する)レナード・バーンスタインによる音楽活動のいくつかに関する資料調査の成果発表である。折しも、前日にはトランプ新大統領の就任式が行われ、第二次大戦中の日系人の不法抑留を彷彿させる人種隔離的ビジョンを声高に語る新大統領に対する危惧が世界各地で広く共有される中でのタイミングで行われた本講演は、色々な意味で意義深いものとなった。
 オジャ教授は言わずと知れたアメリカ音楽の代表的研究者のひとりである。ヘンリー・カウルと並んでアジアの音楽世界を採り入れることで「脱ヨーロッパ」を図った「アメリカ音楽の父」の研究Colin McPhee: Composer in Two Worlds (University of Illinois Press, 1990) や「ブーランジェ楽派」とジャズをアメリカ現代音楽の源泉の2潮流と据えるMaking Music Modern: New York in the 1920s (Oxford University Press, 2003) など、第二次大戦前の北米音楽に関する研究が代表的だが、ここ数年は第二次大戦中・後の政治・社会と音楽創作との関係を巡る研究をしている。その一部は2014年に出版されたBernstein meets Broadway (Oxford University Press) ですでに発表されているが、本講演はそれに補足する形での内容となった。主たる事例として、1)1922年から64年にかけてニューヨーク・フィルがニューヨーク市郊外のルウィソーン・スタジアムLewisohn Stadiumで行った通称「スタジアム・コンサート」、2)終戦直前の時期にブロードウェイで行われたバーンスタインの《On the Town》公演、の二つが紹介された。オジャ教授の考察は、それらをアメリカ合衆国の音楽組織(オーケストラ、オペラ・カンパニー、音楽院、音楽事務所)が積極的あるいは受動的に追随していた人種隔離政策への「抵抗」として位置付けることを出発点としている。
 そのうち前者に関する講演内容について簡単に触れておく。ニューヨーク・フィルは当時、カーネギー・ホールで定期演奏会を行っていたが、そちらのオーディエンスがほぼ白人層で占められていたのに対し、チケットも安価で、かつマンハッタンからの無料バスが出ていた「スタジアム・コンサート」は人種が混合したオーディエンス構成だったという。また、57年にニューヨーク・フィルの音楽監督に就任することになるバーンスタインは、(急病のブルーノ・ワルターの代役として鮮烈なデビューを飾った43年以降)すでに40年代後半から同シリーズに指揮者として参加してきたが、それまでの西洋芸術音楽の伝統に則ったレパートリーを中心とする(時にガーシュウィンなどが入ることはたしがだが)プログラムから、ジャズや黒人聖歌などを積極的に採り入れたプログラムにシフトし、受容サイドのみならず創作サイドの意識転換も図ることとなる。その象徴とも言えるのが1947年6月に行われたコンサートで、アフリカ系アメリカ人ソプラノ、マリアン・アンダーソンをソリストに迎え、ヘンデルからブーレスク、黒人哀歌まで幅広いレパートリーを含むプログラムが披露された。ニューヨーク市という、全米でもリベラルかつ強固な共産主義シンパ層を抱える都市においても、もうしたイヴェントが当たり前の事ではなく、むしろ一つの意識的な申し立てとして実施されたという事は、改めて「自由と民主主義の国アメリカ」が抱える矛盾を浮き彫りにする。合衆国南部において公立学校における人種別学習制度が違憲とされたのは50年代半ばに入ってのことだし、職場からテレビ・映画産業まで、アフリカ系アメリカ人の地位向上を目的に人種差別的傾向のモニタリングを行う全米黒人地位向上協会(NAACP)は現在も活動を続けている。上記のアンターソンは39年、首都の憲法記念堂Constitution Hallのリサイタル利用が拒絶され、代わりに70,000人以上の人種混合オーディエンスを前にしたリンカーン記念堂前のリサイタルを行っているが、以降、反ジム・クロウ法の象徴的存在となっていた。そうしたアンダーソンの起用は、バーンスタインによる明白な政治的メッセージであったであろうことに否定の余地はないし、バーンスタインが45年から48年にかけて音楽監督だったニューヨーク市立オーケストラでは、後にアフリカ系アメリカ人で初めてオペラ(ニューヨーク市立オペラ)を指揮することになるエヴェレット・リーがヴァイオリン奏者として雇用されていることからも、バーンスタインの一貫した反人種隔離主義の姿勢が確認できる。
 他方、バーンスタインのそうした活動が起こし得た身内(ニューヨーク・フィル団員、エージェント等)との不協和音の可能性や軋轢などにはほぼ言及がなく、全体が美しき物語として終わってしまった感があるのは否めない。ニューヨーク・フィルの保守性についてはこれまでブーレーズや武満も語っているし、オジャ教授が講演中に使った映像中の「スウィング出来ない」NYフィル奏者によるジャズ演奏は、「出来ない」のではなく「したくない」奏者のあからさまな抵抗なのかもしれない。
 最後に、桐朋学園大学の大西義明さんの素晴らしい通訳にふれておきたい。講演および続く質疑応答にて、正確、緻密かつオジャ教授の意を汲んだ真摯な仕事はまさに通訳の手本だった。この場をお借りして謝意を示したい。


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