日本音楽学会過去の全国大会第50回(1999)プログラム>コロキウム主旨


日本音楽学会第50回全国大会
コロキウム主旨

A−1 コロキウム I 

「バッハとドレスデン」

コーディネーター:礒山 雅(国立音楽大学/関東支部)

発言者:

角倉一朗(東京藝術大学/関東支部)
小林義武(成城大学/関東支部)
樋口隆一(明治学院大学/関東支部)
富田 庸(ベルファスト王立大学/関東支部)

 昨今におけるバッハ研究の関心のひとつは、バッハを取り巻いていた環境、就中音楽活動の現場を解明することである。こうした流れの中で、選帝侯都ドレスデンの重要性が浮かび上がってきている。ドレスデンが名宮廷楽団を擁していたこと、バッハが当地の「宮廷作曲家」の称号を誇りにしていたことは周知の事実であるが、近年では、ドレスデンが後期におけるオルガン演奏活動の中心地であったことや、新様式の情報収集地であったことへの認識も、深まりつつある。《ロ短調ミサ曲》の〈ミサ〉部分や種々の世俗カンタータ、《ゴルトベルク変奏曲》のほか、《クラヴィーア練習曲集第3部》などのオルガン曲もドレスデンとのかかわりのもとに成立しており(このリストはさらに増やすことができる)、バッハの創作活動に対してドレスデンが果たした役割は、きわめて大きかったと言わなくてはならない。

 こうした状況を踏まえて、本コロキウムでは、バッハとドレスデンの関係とその意味について、議論したい。それも、すでに判明した事実や通説化した情報を整理交換するのではなく、パネリストに現在の研究に基づく大胆な仮説と見通しを提示していただき、それを相互に検証しながら前進するという形をとりたいと思う。具体的には、《ロ短調ミサ曲》の晩年における完成がドレスデンへの「再献呈」を目的としていたか否か(角倉氏)、1730年代前半の成立と判明した《マニフィカト》とドレスデン宮廷のカトリック礼拝との間にいかなる関係が想定されるか(小林)、《ゴルトベルク変奏曲》成立の経緯とドレスデンの音楽事情の関係は資料研究の立場からどうとらえられるか(富田)、といった問題を予定している。ただし、当日までの研究の進展によって仮説そのものが修正される可能性のあることを付記しておく。


A−3 コロキウム II

「音楽考古学の現状と可能性」

コーディネーター:野川美穂子(東京藝術大学/関東支部)

発言者:

笠原 潔(放送大学/関東支部)
小島美子(国立歴史民俗博物館/関東支部)
近藤直美(國學院大学/関東支部)
山田光洋((財)横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター/非会員)

 考古学的調査の進展は、日本音楽史研究における音楽考古学 musical archaeology の重要性を、急速に高めつつある。楽器の出土が毎年多数報告されている現在、遺物や遺構に基づいて音楽を研究する音楽考古学は、縄文、 弥生、古墳といった文献のない時代の音楽のみでなく、文献資料がありながらも記されることのなかった音楽や音楽文化の解明に、大きな可能性を示している。

 音楽考古学が対象とする遺物は、日本では、実物およびミニチュアを含む楽器例、埴輪例を主とする。前者としては、土鈴、銅鐸、口琴などの体鳴楽器、コトなどの弦鳴楽器、石笛、土笛、陶■[注]、横笛などの気鳴楽器が挙げられ(この他にも刻骨、篦状木製品、動物形中空土製品、有孔鍔付土器、弓弭状有栓骨角製品なども、楽器とする説がある)、馬具や武具としての鈴の類、狩猟用の鹿笛など、単に音が出る道具まで対象とすれば、実に多岐にわたる。そもそも楽器とは何か、音楽とは何かといった根本的な問題にまで踏み込んで考える必要があり、考古学はもちろんのこと、民族学、民俗学などにも照らして、環境や社会との関連から音楽を考察する視点も重要である。

 昨年5月に第1回の研究会を開いた音楽考古学研究会は、こうした状況の中で、音楽に関連する考古学的情報の収集と整理、それらを実証的に分析する方法論の確立、音楽学関係者と考古学関係者の情報交換などを目指して結成された。このコロキウムは、この研究会に所属するメンバーを発言者としており、笠原、小島、野川の3名は音楽学、近藤、山田の2名は考古学が専門である。ここでは、研究の基盤として研究会が取り組んでいる、出土楽器および関連資料のデータベース化の作業状況を紹介し、あわせて、その過程で浮上してきた問題点に検討を加えながら、音楽考古学の現状と可能性を考察する。

注: ■は、土へんに員の「ケン」の字です。会報では作字しています


A−4 コロキウム III

「音楽学と国民国家」

コーディネーター:大崎滋生(桐朋学園大学/関東支部)

発言者:

渡辺 裕(東京大学/関東支部)
松本 彰(新潟大学/関東支部)
塚田健一(広島市立大学/関西支部)

 音楽学という学問体系は19世紀にドイツでその基盤が固められた。それは、音楽学といっても、今日までの一般的な理解からすると主には音楽史学の範疇に入るものとしてであった。そしてまた、今日までにクラシック音楽とか芸術音楽といった部類に入れられている音楽、その中核をなす絶対音楽といった種類の音楽やその音楽形式、その美学思想、あるいはコンサート生活といったその鑑賞制度、などもみな19世紀ドイツで、音楽学とは一見別個に、しかし深くつながって、確立された。一見別個にというのは、それらをひとつのものと見てこなかったという私たちの現実にはそれなりの理由があったからである。そして、深くつながって、ということを掘り下げていくと、音楽学そのものの存立に関わる重大な問題にぶつかる。

 学問の歴史は書物に跡づけられる。しかし、書物が商品として販売されるようになると、それは、書き手の問題意識ばかりではなく、読み手集団の、すなわち社会の、見えざる関心の顕在化と見ることもできる。著者は社会の要求を背後に感じながらその問題に向かったはずである。書物が国民語で公刊されるようになったとき、その書物に想定されていた読者は誰であったのか。国民語による出版は国民国家の形成を促したひとつの原動力であった。

 そもそも学問研究には、それに立ち向かう大きな動機があるのではないか。そしてその成果が国民語で叙述される限りにおいて、音楽学の大きな動機は、当該国民に関わる何かと結びついていたのではないか。

 音楽に関する叙述に人々が求めた知は、音楽の深い理解に誘うためのものでもあったが、音楽文化建設の確信を深めるためでもあり、民族の歴史に誇りを持つためでもあった。音楽学の成立の背後にこうした問題があるとすれば、過去の音楽学にはナショナリズムが色濃く投影されているのではないか。そもそも歴史とは勝利者によって語られてきたものだが、音楽史にもドイツ音楽の勝利というモメントがあった。

 また、過去を遡るだけではなく、遠方にも出かけて、世界を把握する誇りは、民族音楽学の成立も促した。それは現在までにいかにしてドイツ=ヨーロッパ中心主義を脱却していったか、あるいは残滓がどのようにあるのか。


B−8 コロキウム IV 

「日本近代における家郷創出と音楽」

コーディネーター:戸澤義夫(群馬県立女子大学/関東支部)

発言者:

奥中康人(大阪大学/関西支部)
長木誠司(東京大学/関東支部)
西島 央(東京大学/非会員)
吉田 寛(東京大学/関東支部)

 このコロキウムは、日本の明治以降の近代における音楽の位置を、主として唱歌に的を当てて家郷創出の側面から明らかにしていくことを目的としているが、まず確認しておくべきことは、第一に、日本の思想には西洋における〈神〉に代表される普遍概念はないとされるが、それに相当するものとして「国体 nation」が案出されたのではないか。第二に、この新たに創出された制度としての日本という国体は、その「物語性」故に、即ちその「虚構性」故に聖化即ち絶対化される必要があり、その一環として、個々の人間には抽象的なものでしかない国土を「故郷」として情念化する必要が生じ、その点に音楽は積極的に参与したのではないか。

 こうした点は、実は、ある意味で、既に先行研究が確認していることであり、今さら改めて取り上げる必要はないかのように思われる。しかし近代とは「近代的である」ことがあらゆるものがそこに帰着する価値となった時代であり、そして、芸術が力への意志の表現として中心的価値を持つに至った時代――ニーチェ――であるとすれば、上述の歴史を日本特有のものと見る、したがって、そこに日本の近代の後進国性を見、ひいては 15 年戦争へ至る必然性を見る見方は再検討されるべき価値があるのではないか、これが我々が次に問題にしたい点である。

 こうした議論を通して、音楽に於ける、近代を超える契機――脱-ナショナリズムの契機――を垣間見ることができればと考えている。


C−8 コロキウム V

「東アジアにおける国民国家形成と宮廷音楽の変化」

コーディネイター:植村幸生(上越教育大学/関東支部)

発言者:

塚原康子(昭和音楽大学/関東支部)
寺内直子(神戸大学/関東支部)
尾高暁子(東京藝術大学/関東支部)

 中華帝国を中心とする国際秩序と密接に結びついていた東アジア(日本・中国・朝鮮)の宮廷音楽は、19世紀末から20世紀初めにかけて、その秩序の崩壊に伴って大きな変化を経験した。その変化は大まかにいえば「衰退」と「復興・保存」への道程であったが、それは同時に、近代的な国民国家形成(朝鮮の場合には植民地化)の過程で、宮廷音楽がどのような政治的・象徴的意味を持ったか、あるいは持たなかったかを解明する端緒ともなるであろう。本コロキウムではこの点に注目し、従来、西洋音楽文化との接触事例として個別に語られがちであった近代における宮廷音楽の変容の問題を、東アジアに共通の政治・文化的脈絡のなかに位置づけてとらえ直したい。主な検討課題としては、東アジア各国における宮廷音楽の歴史に対する(音楽家自身の、および外部者の)認識と評価、「国楽」概念およびそれと関連する「伝統音楽」観の成立、宮廷音楽「近代化」事業の経緯とその意義、さらには、いわゆる「伝統の創造」論から東アジア宮廷音楽の変化を解釈することの有効性などが挙げられる。特に、明治以降に日本の雅楽が経験した復興・保存・再創造の足どりとその意義を、東アジア諸国の事例との比較によって見直したい。



D−8 コロキウム VI

「ベートーヴェン研究の現在――ダールハウスが提起した諸問題」

コーディネーター:土田英三郎(東京藝術大学/関東支部)

発言者:

龍村あや子(京都市立芸術大学/関西支部)
野本由紀夫(桐朋学園大学/関東支部)
平野 昭(沖縄県立芸術大学/関東支部)
藤本一子(国立音楽大学/関東支部)

 今日のベートーヴェン研究はバッハ研究やモーツァルト研究などと比べるとやや遅れが目立つ。日本では学術的な研究自体があまり盛んではないように見える。その原因はいろいろあるだろうが、一度同学の志が集まって意見や情報を交換しあうことの必要性を痛感する。

 具体的な議論のためには、C.Dahlhaus, Ludwig van Beethoven und seine Zeit (Laaber, 1987) が恰好の材料を提供してくれる。同書は評伝ではなく「抜粋された幾つかの観点」(L.フィンシャー)であるが、多方面にわたる問題点を提示しながら、新しい観点や方法論の提案を行っている。しかも、その多くは単にベートーヴェン研究の枠内にとどまらず、音楽学全般に及ぶ広がりを内包しており、近年における音楽学の新たな展開*との関係でも論ずることが可能である。さらに、ここには様々な問題意識をもったダールハウスの長年にわたる思考が流れ込み、ある意味で彼の総決算という性格をもっているので、ダールハウス研究の文脈でも興味深い文献である。

 このコロキウムでは、まず最初に各パネリストから短い書評をしてもらい、そこで指摘されるであろういくつかの論点(伝記研究と作品研究の関係、分析の諸カテゴリーと概念モデル、解釈、受容史、「新しい道」、「晩年の作品」、両義性、方法論の複数主義など)を軸に議論を進めてゆきたい。今回のコロキウムの趣旨は少人数で専門的な議論を徹底的に行うということなので、前掲書を共通の基盤として、あくまでもベートーヴェン問題に沿いながら、予定調和に終わらない開かれた議論の場としたい。

 *いわゆる「ニュー・ミュージコロジー」をはじめ様々な傾向があるが、例えば以下の論文集は包括的で興味深い。N.Cook & M.Everist (ed.), Rethinking Music (Oxford, 1999).


日本音楽学会過去の全国大会第50回(1999)プログラム>コロキウム主旨