日本音楽学会過去の全国大会第50回(1999)プログラム>研究発表B要旨


日本音楽学会第50回全国大会
研究発表B要旨

研究発表 B−1

深層文化におけるチベット音楽の伝統と変容の現状
坪野和子(埼玉大学/関東支部)

 すべての音楽は文化であるがゆえに時間と空間をともなった変容をしていく。それは、政治情勢・情報・環境・経済など諸要素が絡み合ってのことでもある。本研究発表はチベットにおける音楽の変容についてを論述するものである。チベットは、1959年のいわゆる「解放」から40年の歳月が経っている。チベットの音楽を五線譜化すると大きな変化を感じられないように思われてしまいがちであるが、演奏法・演唱法の変化や居住地域による環境などにともなって音質やリズム・テンポなどの空間性の変化を聴取することができるのである。今回の研究発表は、中華人民共和国の統治下にあるチベットの音楽とインド・ネパールに亡命したチベット人たちの音楽と欧米に亡命したチベット人たちの音楽を映像・音源を使って、その変化を比較考察したものである。

 研究対象は、深層文化に関連する以下の2ジャンルにしぼることにする。

1. チベット全土にポピュラーな民謡およびローカルな民謡
2. ポピュラー音楽(メディアを伴った口伝ではない大衆流行音楽)

  1.は、ツェテン・ドルマ(現自治区副委員長)による演唱とパンデン・タウー(ドイツ在住難民)による演唱を比較し、変化を考察する。東南チベットのコンボ地方の民謡やトェ地方の民謡などローカルなものの現状を考察する。2.は、中国領と各地難民のいわゆる歌謡曲に当たるジャンルの比較である。これは、カラオケなども含む。


研究発表 B−2

ハンガリーの「フォーク・リヴァイヴァル運動」の展開と諸問題
横井雅子(桐朋学園大学/関東支部) 


 戦後のハンガリーの音楽界において決定的な役割を果たしたのは、国を挙げて実施されたコダーイ・メソードとされるが、この教育法が行き渡った1970年代に「フォーク・リヴァイヴァル運動」が都市部の大学生などの知識層を中心に起こり、主に若い世代の音楽に対する意識を変えるのに大きく寄与した。社会主義時代前半に中・東欧各国で行われた民俗舞踊の舞台化により、民俗舞踊や音楽が変質されたことに対する疑問から生まれたこの運動は、再現の際におざなりにされがちだった舞踊や音楽のオーセンティシティーに対する問題意識を高め、踊りや演奏を担う人々が調査・研究に従事するという現象の端緒となった。実際、現在ハンガリーで民俗舞踊・音楽の研究に携わる人のうち、かなりの数がフォーク・リヴァイヴァル運動の出身者である。この運動の大きな特色は、イデオロギー主導のものではなく、また過去に対するノスタルジーや伝統回帰を目指したものでもなかった点で、むしろ若者の間では伝統芸能が新鮮なものと受け取られて、多くの人が何か新しい感覚として興味を示し、運動はやがて大きなうねりへとつながっていった。

 伝統芸能がこのように新鮮な印象を多くの人に与えた背景として、それまでジプシー楽団に代表される大衆音楽がハンガリーの音楽シーンを象徴する存在とされていたことが挙げられよう。社会主義時代初期に「貴族階級に寄生してきた音楽」として糾弾されたこともあるジプシー楽団は、その後、貴重な観光資源の一つとして保護されたが、その前世紀的な在り方と異国趣味的な音楽の質は、「純粋な源」をモットーとしたフォーク・リヴァイヴァル運動の展開とともに、運動の美学に反するものとして次第に排斥されるようになった。こうして、かつては舞踊の伴奏が多くの場合ロマ(ジプシー)であったのに対し、運動の展開によって非ロマが大半を占めるという、かつて無かった事態も起きたのである。


研究発表 B−3

大阪国際フェスティバル――日本初、都市型国際総合音楽祭の真実
宮本美紀(大阪大学/関西支部)


 何もかもが、村山家の居間から始まった。当時日本を行き来しながら、国際的な音楽家を多数日本に紹介したニューヨーク在住の音楽マネージャー、アウセイ・ストローク氏が、朝日新聞社新社屋内にホールが予定されているのを知り、日本初の音楽祭開催を強く勧めたのがそのきっかけだった。彼は帰国に際して朝日新聞社会長の令嬢、村山未知氏(現大阪国際フェスティバル協会会長)を伴なって、ヨーロッパ中の著名な国際音楽祭を視察させることを約束した。しかし、その10日後にストローク氏は死去。村山氏はその意志を継ぐかのように、単身ヨーロッパ(ザルツブルク・フェスティバル、エディンバラ・フェスティバル)及びアメリカ視察旅行に出発する。1956年、「もはや戦後ではない」という名文句が発せられ、日本は高度経済成長期に入ろうとしていた時期のことである。

 芸術家会議発行の『国内外の芸術フェスティバルに関する実態調査報告書』(1992年3月、東京)には、「音楽、演劇、舞踊、美術など、芸術のあらゆる領域を対象にした総合的な芸術フェスティバルは、まだわが国において実現していない」とあるが、視察旅行の2年後、1958年に開催された第1回大阪国際芸術祭(現大阪国際フェスティバル)が、日本初の映画祭や日本の伝統舞台芸術および、工芸品展示までを射程に入れた、本格的な都市型国際総合音楽祭であったことは事実である。

 本発表では、大阪国際フェスティバルの草創以前の朝日新聞社による文化活動から、大阪万国博覧会が開催された1970年までをとりあげる。戦後の混乱期、そして激動の戦後高度成長期にあって、大阪国際フェスティバルは日本の何を象徴し、どのような機能をはたしていたのか。その歴史をふまえつつ、現代にも通じる音楽祭の意義をあらためて考えるとともに、日本における音楽祭研究の一歩としたい。


研究発表 B−4

東京国立博物館所蔵『キリシタン祈祷書写本』
皆川達夫(立教大学/関東支部)

 いわゆる天正期のわが国に、キリスト教伝来に伴ってヨーロッパ音楽、洋楽が到来し、かなりの繁栄をみせたことはひろく知られている。ただし、当時の洋楽にかんする情報はほとんど間接的なもので、音楽の実態について直接かつ具体的に証言する史料の数はきわめて少ない。たとえば楽譜のかたちで当時の洋楽の姿を伝えるものは、1605年(慶長10年)長崎で印刷された『サカラメンタ提要 Manuale ad Sacramenta』わずか1冊にすぎない。この時期の洋楽伝来について探求しようとする研究者の前に立ちふさがる大きな障壁は、この極度の音楽史料の不足である。

 その状況のなか、発表者は『サカラメンタ提要』について、また隠れキリシタンのオラショについて何回か研究発表を重ねてきたが、今回、従来ほとんど注目されることのなかった史料を調査する機会をえた。 その史料は、東京国立博物館に『耶蘇教写経』(列品番号C729号)として所蔵されている縦9.3×横5.6センチの小型紙本である。旧帝室博物館列品記載簿は、この書に関して「寛永年間天草賊亡ビシ時官没セシモノト云フ」と記している。その93頁にわたって、聖母の連祷 Litaniae Lauretanae、晩課 Vesperae および終課 Completorium などのためのラテン語聖歌の歌詞や祈祷文が変体仮名で墨書されているのである。

 発表者は、その仮名文をラテン語に復元し、この書の内容を明確にすることが出来た。今回の発表では、とくにこの書の音楽的な側面を明らかにし、また、この書と『サカラメンタ提要』や『ドチリイナ・キリシタン』などの当時のキリシタン版宗教書との関係、さらに生月島の隠れキリシタンのオラショとの関連などについて論述する。


研究発表 B−5

神津仙三郎の『音楽利害』(明治24年)と明治前期の音楽思想
──19世紀音楽美学史再考のために
吉田 寛(東京大学/関東支部)


 神津仙三郎は伊沢修二と共に音楽取調掛を設立し、楽典の翻訳や音楽史の講義を担当した教育家である。西洋音楽史の沿革を調査する任務を持った彼は、音楽という西洋的理念を理論的に導入した人物として伊沢に劣らず重要である。和漢洋の音楽書や史書を参照して国家運営や社会風俗への音楽(教育)の効用を論じた主著『音楽利害』(明治24年)は、日本で初めての音楽史・音楽美学の書である。彼が用いた和漢の文献については研究があるが、洋書については考察が遅れている。本発表では彼の用いた洋書を同定し、それらが選ばれた背景や目的、それらが神津に与えた影響を考察する。

 当時の政府留学生は、後に主流となるドイツでなくアメリカに学んでおり、神津もニューヨークに留学(明治8〜11年)した。そのため彼が用いた洋書は、英語と仏語の英訳に限られる。ドイツの音楽美学でなくイギリスの比較音楽学やフランスの音楽医療論が彼の思想基盤となったことは、取調掛の性格にも強く反映した。

 神津は「和洋折衷」の音楽政策に理論的根拠を与えるべく、エンゲルから東西音階のインド起源説を取った。またエンゲルの民俗音楽の概念を国歌の理念へと転換した。そして音楽が高い医療的効果を持つことをショメから、発声が生物の根源的身体運動であることをダーウィンから学んでいる。音楽による徳性向上や人間形成を重視する彼は、偉人の教訓伝として音楽史を捉えた。当時の音楽事典(ムーアやグローヴ等)は依然、伝記的挿話を中心に構成されており、神津にとって音楽的逸話の宝庫となった。またすでに翻訳で流布していたスマイルズの道徳論は、それが称揚する自助精神が神津の思想の根幹を作っただけでなく、『音楽利害』の構成上の模範ともなった。

 神津が参照した洋音楽書は今日では読まれないものがほとんどである。ドイツ中心で論じられてきた19世紀音楽思想の枠組みを見直すためにも、神津の活動は再考に値しよう。


研究発表 B−6

1915〜1918年の伊藤道郎の活動とホルスト「日本組曲」の成立事情
武石みどり(東京音楽大学/関東支部)


 グスタフ・ホルストが有名な組曲「惑星」の作曲のあいまに「日本組曲」を作曲し、その際、舞踊家伊藤道郎から日本旋律を得たことは知られているが、その詳しい事情についてはこれまで明らかにされていなかった。この研究では伊藤道郎の当時の活動状況を中心に調査し、イギリスのホルスト財団より情報を得て、以下のような知見を得た。

(1)伊藤は1915年5月にロンドンのコリージアム劇場に出演した際、日本旋律を用いて独自の舞踊を披露した。その音楽の内容は、ホルストの「日本組曲」と関連している可能性がある。
(2)コリージアム劇場出演後、おそらく1915年6月〜7月にかけて伊藤はホルストと会い、その後ホルストは「惑星」の作曲を中断して「日本組曲」の作曲を始めた。二人を仲介した人物は今のところ不明である。
(3)「日本組曲」の草稿は1915年8月中旬に完成し、その後オーケストレーションが行われた。
(4)伊藤は1916年8月にイギリスからニューヨークに渡ったが、それまでの間に「日本組曲」が演奏された記録はない。
(5)渡米後、伊藤はニューヨークでも日本風の舞踊を発表した。プログラムから見る限り、その内容はイギリスでの活動内容と一部共通している。作曲家チャールズ・T. グリフェスと知り合い、やはり日本旋律を提供して舞踊のための楽曲の作曲を依頼したが、その旋律の中にはホルストが「日本組曲」で用いたのと同じ旋律も含まれている。

 発表では、伊藤道郎が示した日本旋律とはどのようなものであったのか、「東洋風」音楽に魅力を感じていたホルストやグリフェスが日本旋律を基にどのような作品を作ったのか、その音楽を用いた伊藤の舞台はどのようなものであったのか、という点を含めて報告する。


研究発表 B−7

ベルリンにおける貴志康一像
鶴見真理(ハンブルク大学/関東支部)
仲 万美子(甲南女子大学/関西支部)


 日本が西洋文化と出会い、様々な分野で西洋音楽を摂取してきた19世紀の後半より20世紀初頭にかけて、幸田延、滝廉太郎、山田耕筰など後世に名を残す人物がその才能の片鱗を海外でも示していた。本報告では、その中でも、20世紀初頭に、スイス留学を経てドイツで活動した貴志康一(1909〜1937)の、ベルリンでの音楽活動の足跡について考察を試みる。

 彼は、28歳で早逝した人生のなかで、幼少より西洋音楽の音の世界に親しみ、バイオリンの演奏技術の修得にはげみ、1926年ジュネーブ国立音楽学校へ留学、1930年3度目の渡欧をし、作曲家さらに指揮者への道を歩んだ。その際、フルトヴェングラーやヒンデミットらと出会い、ベルリンでの自作品の初演を含めた演奏会を開催した。

 本発表では、その足跡のうち、ベルリンのウーファでの演奏会を中心とした関連資料調査の中間報告を行う。基本資料としては、1)現在貴志康一記念室(兵庫県芦屋市にある甲南高等学校内)に収蔵されている遺族より寄贈された関係資料、2)ベルリンに現存している資料、を対象とする。

 ウーファで1934年3月29日に開催された Japanischer Abend に関する Deutsche Allgemeine Zeitung や Berliner Zeitung などの定期刊行物に掲載された記事資料を通して、貴志の創作作品や指揮者ぶりにどのような視線が向けられていたか、また、20世紀初頭のヨーロッパでの日本人音楽家受容の意義についての考察を試みる。


日本音楽学会過去の全国大会第50回(1999)プログラム>研究発表B要旨